
監視されていること
今日は、ふと気づいたことを少しだけ書いてみます。
前にもどこかで書いた気がするんですが、最近あらためて「監視カメラ、多くない?」と思うんですよね。
福岡市に住んでいるんですが、電柱を見上げると本当にあちこちにカメラが付いています。
市が計画的に設置しているという記事を読んだことがありますが、それにしても増えました。
人通りの多い交差点はもちろん、住宅街にも普通にある。
500mほど歩いただけで3台見つけた時は、さすがに「こんなに?」と驚きました。
写真もいろいろ撮ったんですが、ここに貼りまくっても仕方ないのでやめておきます(笑)

防犯なのは分かるけれど…
もちろん目的は「防犯」です。
最近は奇妙な事件も多いので、カメラがあれば安心だという気持ちも分かります。
実際、事件が起きると「防犯カメラがあれば…」と多くの人が思うはずですし、私もそうです。
ただ、ふと立ち止まって考えると、ちょっと違和感があるんですよね。
閑静な住宅街にまでこれだけの数があるということ。
“防犯カメラ”と言えば聞こえはいいけれど、言い換えれば“監視カメラ”。
つまり、街中で常に誰かに見られているということになります。
監視社会が抱える2つの危険
ここからは完全に私の考えですが、監視社会には大きく2つの危険があると思っています。
①「見えない誰か」による抑圧
昔読んだ本に、刑務所での実験の話がありました。
刑務官が姿を見せて監視するより、姿を見せずに監視した方が囚人の行動が強く統制されたというものです。
つまり、人間は「見えない誰かに見られている」という感覚があると、自分の行動を無意識に規制してしまう。
自我が阻害され、アイデンティティが薄れていく。
これ、街中の監視カメラにも当てはまると思うんです。
そして同じことは、子どもを常にスマホで撮影している親にも言えるのではないでしょうか。
年中カメラが目の前にある環境で育つことが、脳科学や心理学的に良いわけがない。
アイデンティティの形成に悪影響があるのは、誰が考えても分かると思います。
②「映像・写真ありき」の社会になる危険
もうひとつは、世の中が映像や写真を“絶対的な証拠”として扱うようになることです。
本来は参考データにすぎなかったものが、すべてのエビデンスになってしまう。
しかも今は生成AIで映像も写真も簡単に偽造できる時代です。
そんな中で「映像があるから真実」と扱われるのは、かなり危険だと思うんですよね。
もし自分が行ってもいない場所の映像が“証拠”として扱われたら?
「映像があるからあなたがやった」と言われたら?
考えるだけでゾッとします。
それでも流れは止められないから
とはいえ、この流れはもう止められないでしょう。
だからこそ、私たちは「巻き込まれないようにする」しかないのかもしれません。
監視カメラが増え続ける街を歩きながら、そんなことを考えた一日でした。
以上


