
パワハラという言葉
最近、電力会社の若い社員がパワハラを理由に自殺したというニュースがあり、遺族が会社を訴える流れになっています。
こうした報道を見ると、過去の大手広告会社の事件を思い出し、同じ構図が繰り返されていることに違和感を覚えます。
今回はちょっとそれ書きます。
なぜ同じような事件がなくならないのか
遺族から見れば企業は悪であり、ハラスメントを放置した責任があるように見えます。
しかし「ハラスメント」という言葉は受け手の感覚で決まるもので、加害側は「指導しただけ」と思っていることも多いのでしょう。
結果として自殺が起きて初めて「これはハラスメントだった」と周囲が気づくケースがあるんです。
もし周囲が気づいていたのに何もしなかったなら、その組織は腐っています。
しかし多くの場合、本人は辞めるという選択肢を取らず、死を選んでしまうんです。
こんなことで死を選ぶ?
私には理解できないのです。
その背景には「人間が弱くなった」「自分で判断できない」という問題があるのではないでしょうか。
社会の中で“逞しさ”が失われている
どんな社会にもいじめや社員間の対立は存在するでしょう。
だから逞しい人間になる必要があるんだと思います。
人間社会は自然界と同じで、弱いからといって誰かが必ず守ってくれるわけではないからです。
しかし現代では、あらゆる対立が「ハラスメント」という言葉で片付けられ、弱い立場の人を過度に保護する空気が生まれています。
これ健全な社会ですか?
その結果、企業は部下を育成しづらくなり、「指導=パワハラ」という構図ができてしまった。
だから若者に関わらなくなってきたんです。
怖いから。
育成のバランスが崩れ、企業の中から「指導」という文化が消えつつあるんですよね。
弱さを肯定し続ける社会の問題
弱い人を守ること自体は大切です。
ただ、少し強く言われただけで会社を辞める、すぐ限界になって死んでしまう。
そんな状態を過度に保護するのはやはり間違いだと思うんです。
そうしなければどんどん自殺してしまう。
これも解るような気がします。
どんどん人間が弱くなり、そういう若者が社会に出るようになれば、国家全体が弱体化していくでしょうね。
アメリカなんかから良いように扱われるのでしょう。
逞しさはどこで育つのか
逞しさは幼少期の経験が大きいと思います。
過保護・過干渉で困難を乗り越える経験が奪われると、大人になって壁にぶつかった時に踏ん張れなくなるんだと思いますね。
昔は子供同士の社会でコミュニケーションを学び、トラブルを自分で解決する経験がありました。
しかし今はどうなんですかね。
周囲を見ていても、親が常に子供に付き添い、子供同士で遊んでいる社会がどんどん縮小していませんか?
子供社会はある意味人間社会への登竜門的なコミュニケーションだと思うんです。
こういう大勢の中で生きていく力を子供の頃から養っていく必要があると思いませんか?
放課後は塾、休みの日は親とレジャー。
これでは強い人間は育たないと思いますよ。
若者が育たないまま社会に出る未来
精神的に成熟しないまま社会に入り、育てられないまま年齢だけ重ねていく若者が増えていませんか?
周囲への配慮、一般常識、そういう物が欠落した状態で社会にでれば、いじめのターゲットにされてしまうでしょう。
では、どういう社会が健全で正しいか?
私には答えが分かりません。
何が正しいとは言えないからです。
ただ、どんな国、どんな社会でも、何となく人間に「逞しさ」があると国全体が発展するんだと思います。
例えばトランプ大統領。
人間性ややっていることは置いといて、あの逞しさは素晴らしいと思います。
どんな困難にも立ち向かっていく。
時には荒々しく、時には紳士的に。
習近平との対談でも、以前とは違った雰囲気を感じました。
アメリカも対中国には既にステージに立たされているのだと思いますよ。
ですから、人を頼らず「逞しく」生きている若者が増えていけば国家も発展するんだと思います。
若い人をみて「人ばっかり頼って無くて、お前もっとしっかりしろよ」
そんな自分が居るのもちょっとがっかりしますけどね。
以上

