たまに一緒にコーヒーを飲める友人がいれば、それで十分だと思う

日常の話

べきだ論的思考を排除

人生の中で、気軽にコーヒーを飲みに行ける友人と、価値観の合う妻がいれば、それだけで十分幸せなんじゃないか

──最近、そんなことをよく思う。

昨日、久しぶりに友人とスタバでコーヒーを飲んだ。

彼はこのブログにも何度か登場している、数少ない“友人”のひとりだ。

私にとっての「友人」の定義

少し話がそれるけれど、私にとって友人とは「自分のことを素直に話せる相手」であり、「利害関係がない人」のことだ。

知人だと、どうしても話しづらいことが出てくる。

でも友人にはそれがない。

仕事をしていると、知人と友人の境界線が曖昧になることもあるけれど、本音を話せるかどうかが大きな違いだと思う。

昨日のコーヒータイムで話したのは、仕事、家庭、親のこと──50代が考えるテーマは、だいたい似てくる。

その中で、私が以前ぶつかった“壁”の話をした。

それは「親の他界」だ。

彼はまだ両親が健在である。

ただ、いつかは居なくなり、必ず転機があるという話をした。

親が亡くなると、心の中に重くのしかかってくるものがある。

それが「べきだ論」との闘いだ。

これは田舎に行けば行くほど、濃いものがある。

「〜すべきだ」
「こうあるべきだ」

子どもの頃から親や学校、社会から刷り込まれた価値観のようなものだろう。

特に核家族化された私たち世代の人間は確実に持っている思考だと思う。

時代に合わなくなっているのに、心の奥に居座り続ける“野獣”のような存在だ。

何か行動しようとすると、突然その野獣が襲いかかってくる。

良い例が、満員電車でお年寄りに席を譲るべきかどうかのシーンだろう。

そういうシーンになると、多くの人が心の中で葛藤していると思う。

私はたぶん「どうぞ」と言ってしまうタイプだけれど、冷静に考えれば、必ずしも“譲るべき”とは限らない。

それでも心の野獣が騒ぎ出す。

私たちは、この「べきだ論」が作り上げた虚像の中で生きているのかもしれない。

50代に鬱が多い理由のひとつ

友人も同じようなことを考えていたので、私の経験を話した。

もし壁にぶつかったら、「それは虚像かもしれない」と一度立ち止まってほしい。

50代に鬱が多いのは、この“べきだ論”に縛られすぎているからだと思う。

もちろん、すべてがそうではない。

自分がそう思うなら、行動すれば良いが、「べきだ論」的思考で動くのであれば、全く無意味という話をした。

人生はもっと気楽でいいと思うし、100%を望まなくていい。

完全な人生など無く、人生は全てがオリジナルということを伝えた。

まあ~、こんなこと話すのは私くらいしかいないかもしれないが、そういうことで悩んでいる人も一定数いることも事実なんだと思う

そんな話をしながら、気づけば一時間半が過ぎていた。

あと何年生きられるかわからないけど、とりあえず気楽に生きるのが良いのだろう。

以上

タイトルとURLをコピーしました